現実であること。擬似現実であること。
2003年6月20日わたくしは映画を見るのが好きだ。多分趣味はなんですかと問われた時一番すっきり答えられるモノである。音を聞いたり、読書やコミックス読み、いうまでもなく飲んだり呑んだり食ったりも好きだから趣味なのだがそれは置いといて。
映画鑑賞を楽しいと思うのは、得られない現実を擬似体験して悦に入っているだけの根暗野郎さぁ〜(とまでは云っても書いてもいないが、わたくしが思うにそう訳してしまった)という発言について。一賛同というか反論というかなんというか。
確かに擬似と思って分析したら、その好みで偏っていたり何だかんだの映画ファンはみんな現実で不満が多い問題人間ってことに分類できてしまう。
しかし映画鑑賞者って、皆がみんな擬似で楽しみたい人ばかりとは思われない。
身近な人間を例にすれば、私にはとても寄れないホラーや暗黒系映画を好んで見るが、だから危険なのではなく、だから現実に移さない思慮が働いているのだと主張し、そのように行動している。
そして私はその論理からいくと、ラブロマンス系映画が大好きなわたしはいい年した「夢見る夢子ちゃん」ながら、生身はダサいいい年した・・・・・・・。コメントを差し控えさせていただきます。
つまり何を思ったかといえば、心理学や臨床心理の一つとして個人の問題としての現実と擬似現実を分析理論化するのはかまわないし、説得力もあると思う。しかしだからといってすべてをそれに反映するのはけして正解ではない。
そんなこといいだしたら、ミステリー流行の昨今、人気作家のすべては将来刑事犯という理論に結びついてしまう。それは絶対違う。
個人を理解したいという感情は理解するけれど、だからといって安易な分析に頼るのはますますの乖離と分離を招くばかりだ。
すべてを含めて、あるいは境界線を脱することでパーソナリティという人間心理は始まるという考え方の方が正しいと私は考える。
どうしてこんなことを考え始めたのか。
もともと興味があった。
大学の教養単位で哲学を取った。
マトリックスを見た。
きっかけも原因も一つではない。そこから得られた結果について、どう批評してよいのかわからない。だから難しいのだ。だから一つではないのだ、ということだけでも伝わればいいのにと思った。
そもそも、現実であることと擬似現実であることとどれほど違うというのだろう。現実を是とする精神があるときはいい。もちろんそれが良き哉。擬似であることがそれほど、現実というものに劣るのだろうか。そのような次元で物事を比較考量するのは本当に難しい。
私自身だけの問題だったならば、私は「自分」と表彰できるものが認めた幸せがそれで由定義できる。でもそれ以外のことまではなにもできない。だって責任なんて取れない。
責任の意味。償いの意味。
はっきり云って無理です。傷ついたその人でない限り責任の範囲は限定できないし、まして償いの限度など・・・。
免許更新の際に受けた講習だけでも、背負ってしまった責任の重さに息が詰まりそうだった。でも有るかもしれない責任を恐れて、生自体を漫然と過ごすなら、それはまた誰かに対する罪になってしまうかもしれない。
結局私は今でも誰かが恐いのかも知れない。
そんなのは嫌だと思い始めた今がチャンスなのかも知れない。
映画鑑賞を楽しいと思うのは、得られない現実を擬似体験して悦に入っているだけの根暗野郎さぁ〜(とまでは云っても書いてもいないが、わたくしが思うにそう訳してしまった)という発言について。一賛同というか反論というかなんというか。
確かに擬似と思って分析したら、その好みで偏っていたり何だかんだの映画ファンはみんな現実で不満が多い問題人間ってことに分類できてしまう。
しかし映画鑑賞者って、皆がみんな擬似で楽しみたい人ばかりとは思われない。
身近な人間を例にすれば、私にはとても寄れないホラーや暗黒系映画を好んで見るが、だから危険なのではなく、だから現実に移さない思慮が働いているのだと主張し、そのように行動している。
そして私はその論理からいくと、ラブロマンス系映画が大好きなわたしはいい年した「夢見る夢子ちゃん」ながら、生身はダサいいい年した・・・・・・・。コメントを差し控えさせていただきます。
つまり何を思ったかといえば、心理学や臨床心理の一つとして個人の問題としての現実と擬似現実を分析理論化するのはかまわないし、説得力もあると思う。しかしだからといってすべてをそれに反映するのはけして正解ではない。
そんなこといいだしたら、ミステリー流行の昨今、人気作家のすべては将来刑事犯という理論に結びついてしまう。それは絶対違う。
個人を理解したいという感情は理解するけれど、だからといって安易な分析に頼るのはますますの乖離と分離を招くばかりだ。
すべてを含めて、あるいは境界線を脱することでパーソナリティという人間心理は始まるという考え方の方が正しいと私は考える。
どうしてこんなことを考え始めたのか。
もともと興味があった。
大学の教養単位で哲学を取った。
マトリックスを見た。
きっかけも原因も一つではない。そこから得られた結果について、どう批評してよいのかわからない。だから難しいのだ。だから一つではないのだ、ということだけでも伝わればいいのにと思った。
そもそも、現実であることと擬似現実であることとどれほど違うというのだろう。現実を是とする精神があるときはいい。もちろんそれが良き哉。擬似であることがそれほど、現実というものに劣るのだろうか。そのような次元で物事を比較考量するのは本当に難しい。
私自身だけの問題だったならば、私は「自分」と表彰できるものが認めた幸せがそれで由定義できる。でもそれ以外のことまではなにもできない。だって責任なんて取れない。
責任の意味。償いの意味。
はっきり云って無理です。傷ついたその人でない限り責任の範囲は限定できないし、まして償いの限度など・・・。
免許更新の際に受けた講習だけでも、背負ってしまった責任の重さに息が詰まりそうだった。でも有るかもしれない責任を恐れて、生自体を漫然と過ごすなら、それはまた誰かに対する罪になってしまうかもしれない。
結局私は今でも誰かが恐いのかも知れない。
そんなのは嫌だと思い始めた今がチャンスなのかも知れない。
コメント